誰かに伝えたいこと 有園ブログ

調べたこと、訪れた場所、アート、音楽などの話を書いています。 職業は、都内の精神科診療所と私設相談室に勤める公認心理師です。しかし、ブログでは、精神に関係ない話が多く、病気など個別の相談はできません。m(_ _)m

人見街道(東京都、Wikipedia)の起源は、江戸時代よりもはるか昔にできた府中道という説があります。昔、武蔵国(Wikipedia)の国府が、現在の東京都府中市に置かれていて、そこから東に向かい、大宮八幡宮(東京都杉並区)、下総国(Wikipedia、現在の東京都の隅田川から東から千葉県北部)につながる道であったという説です。
府中道(旧人見街道)は、時代によって役割が異っていたため、現代から時代をさかのぼって、調べたことを書きます。

(1)現在の人見街道
1984年、東京都通称道路名という制度によって、人見街道という名称がつけられました。東京都の制度では、人見街道の起点は杉並区浜田山3丁目から、終点は府中市若松町4丁目とされています。起点の先に高千穂大学、終点の先に府中基地があり、そこで道が途絶えています。
それ以前は、地域によって呼び名が変わっていたのだろうと思います。私が、昭和時代に住んでいた久我山から高井戸の辺りでは、久我山街道と呼ばれていました。

(2)明治20年以前の府中道
東京近傍図という明治20(1887)年に近代測量によって作成された地図があります。その復刻版[1]を見ると、当時は、まだ江戸時代の面影が残っていたと考えられます。
東京近傍図004

その地図のコピーに、旧人見街道(以下、府中道)のルートを水色の線を引きました。
←地図1:現在の杉並区久我山から三鷹市大沢

東京近傍図006
←地図2:現在の杉並区高井戸から新宿区
府中道は、現人見街道の始点の先で大宮八幡宮(杉並区)につながっています。


東京近傍図005←地図3:三鷹市大沢から府中市
現人見街道の終点の先は、人見村を経て(旧)甲州街道(Wikipedia)の府中駅(宿)と大國魂神社につながっていたことがわかります。

まず、当時の府中道と、現在の人見街道とで、ルートが違っている部分の解説を(3)(4)に書きます。

(3)杉並区久我山付近
地図1を見ると、かつての府中道は、久我山稲荷(創建不明)の前を通り、久我山駅の北側を経て、久我山5丁目で、現人見街道につながる道でした。この区間では、神田川をまたぎますが、川のルートも、現在と当時とでは異なっていました。
20221218hitomi02府中道も久我山稲荷も、川の氾濫や崖の地形の影響を受けにくい場所にあったと考えられます。
←左が府中道で神田川・久我山稲荷方向、右が現人見街道・久我山駅方向


(4)三鷹市牟礼付近
20221218hitomi03←右の道が現人見街道、歩道を挟んで左の道が東八道路。
杉並区と三鷹市の境界に、玉川上水があり、そこを渡ります。
大きな木の根元に、石仏(久我山牟礼境庚申搭)があり、元禄13(1700)年、江戸時代からのものでした。
その先に牟礼1丁目の庚申供養塔があります。

mure_douhyou_L
この庚申供養塔の横にあった三鷹市教育委員会による解説には、この道標が建てられたのは享保17(1732)年、「右 是より 古く帰ん寺道」、つまり国分寺道と書かれています。この庚申供養塔の右を進むと、すぐ現人見街道(地図1:ピンクの線)になります。つまり、そから先は、かつての井之頭弁財天道(当ブログ古道2-12-2)が、現人見街道になってしまっているのです。そして、そのまま現人見街道を西に進み、牟礼2丁目を過ぎたところで、連雀通りに分岐するのですが、その連雀通りが、国分寺道(地図1,3:黄色の線)です。

牟礼1丁目の庚申供養塔に、「左 是よ里 ふちう道」、つまり府中道と書かれていることで、現人見街道とは異なり、府中道は、現在の東八道路(地図1:水色の線)方向のルートであったことがわかりました。東八道路を西に進むと、府中道は、牟礼7丁目の分岐点で東八道路から外れ、下本宿通りとなり、三鷹市立第1小学校の前で、現人見街道につながります。
20221218hitomi01
←三鷹市立第1小学校の前の現人見街道。
この道の交差点から奥が、牟礼7丁目の下本宿通りです。また、左折方向が、現人見街道です。
この交差点から手前方向(西側)は、府中基地まで、現人見街道と府中道はほぼ同じルートです。
府中道は、府中宿から大宮八幡宮まで、ルートの凸凹があまりないことが特徴です。

(5)江戸時代の人と物の流れ
江戸時代初期の慶長7(1602)年に、甲州街道が整備されました。それによって、この付近を東西に通る道として、甲州街道が幹線道路になりました。
江戸時代に、井之頭池が、神田上水の水源となり、その周辺のかなり広い地域が、幕府の鷹狩や萱(かや)狩場に用いられていたそうです。そこへ行く道として、甲州街道の上高井戸宿から、井之頭弁財天道ができました。この道が、先ほどの牟礼1丁目の道標で、府中道に交差し、牟礼2、3丁目の交差点まで、国分寺道と共通の道となっていました。(地図1:ピンクの線
また、江戸時代になると、多摩の広い地域で、新田開発(新たな農地を作ること)が行われ、新たな集落ができました。玉川上水品川用水などの人工の水路ができ、そこから農業に必要な水を利用できるようになったことも理由の一つです。現在の三鷹市付近にも、江戸時代に開拓された新田があり、そのような地域から、国分寺道や府中道を通って、甲州街道を経て、江戸方面へ向かう人や物の流れができたと考えられます。
ただ、地域によっては府中道から甲州街道に抜けるには、牟礼1丁目の道標で、井之頭弁財天道に曲がって行くよりも、現在の下本宿通り(三鷹市牟礼から久我山病院に向かう道)を通って、久我山1丁目から井の頭弁財天道につながる道(地図1:緑の点線)の方が、距離を短縮できます。昔は、歩行や荷車での移動ですから、できるだけ距離を縮めた方が、時間も労力も減らせたわけです。そのため、江戸時代から明治にかけて、この下本宿通りから井の頭弁財天道へのルートが、甲州街道への抜け道として、利用されていたようです。江戸時代(1804-29年)新編武蔵国風土記稿[2]の野川村、野崎村、大沢村の項では、府中道という名前ではなく「府中ノ裏道」「甲州裏道」「江戸ヘノ往来ナリ」と書かれています。

(6)府中道の解釈
kuga_douhyou_L当ブログ「古道2 井の頭弁財天道2」で書いた久我山1丁目の庚申搭には、「左リふちう道」と書かれています。ただし、他の道標のように「是より」ふちう道とは書かれていないので、左の道が府中道なのか、左の道を進むと府中道につながるという意味なのか判断に困ります。

これまでに府中道、府中街道と呼ばれた道は、現人見街道以外にもあります。また、鎌倉街道も同様で、昔は、同じ行く先の地名がついた道が複数あって、それぞれ道の名前を区別しないでいたこともあったわけです。江戸時代の五街道のように、その時代の行政が道名を区別していた場合は別ですが、そうでなければ同じ名前の道が他にあっても、区別する必要はなかったのではと想像されます。

また、江戸時代に村尾正靖が書いた「嘉陵紀行」という江戸附近の名所旧跡を訪ねた文が残っています。その中に、甲州街道を新宿、烏山、仙川、布多などを通り府中まで旅したエッセイを「府中道の記」[3]と書いているように、道の名前ではなく、行く先として「道」という漢字を用いることもあったようです。
そして、牟礼1丁目と、久我山1丁目の庚申搭には、それぞれの左側に府中道と書かれていたけれど、その道を進んだ先にある牟礼2丁目の分岐点から、逆に眺めてみると、2本の道を、いずれも府中道と呼んでいいのか?という疑問も生じます。
以上から、当時は「**道」と書かれていても、現代のように他の道と区別できる固有名詞としての道路名ではない場合もあることが考えられます。

府中から杉並区の大宮八幡宮につながる府中道(旧人見街道)は、江戸時代に甲州街道が整備される前からあったと考えられます。ですので、下本宿通りから井の頭弁財天道へ抜ける道(地図1:緑の点線)を、江戸時代から明治時代に府中(裏)道と呼ばれたことがあったのかもしれませんが、現代の人が旧人見街道と置き換えるのは、正確さに欠くと考えられます。

今後(いつになるかはわかりませんが)、人見街道と府中道2 戦国時代から律令制時代にさかのぼって書く予定です。

当ブログの古道の記事:

参考文献:
[1]1880(明治20)年陸軍測量局発行(測量は明治13~19年)の東京近傍図、西部。復刻版発行は、古地図史料出版株式会社。その一部をコピーし、注やラインを加筆。
[2]新編武蔵国風土記稿の多磨郡之三十八(1804-29年)、下山照夫[編](1994)「史料に見る江戸時代の世田谷」p295-300
[3]村尾正晴[著]「嘉陵紀行 第一編 府中道の記」(国立国会図書館デジタルコレクション)江戸叢書刊行会(大正5年)



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12月になって、東京では紅葉が見頃です。
ちなみに、12月5日は、旧暦だと11月12日。秋は紅葉というイメージは、旧暦の方がしっくりします。

20221204icho02昨日の昼に寄った近所の公園のイチョウ。
一列に並んだイチョウから落ちた黄色い葉がきれい。
日曜だったので、家族連れもいて、ほんわかしていました。



20221204icho01
同じ公園。





20221204icho03←OCDサポートの近くの中町通りのイチョウも色づいています。
イチョウに限らず、広葉樹の葉は、新緑から夏にかけて、緑で茂ってきたのに、印象が薄い。でも、その間、夏の猛暑にさらされても、木陰を作り、二酸化炭素を吸って、光合成をして、気象にも貢献してきてくれたわけです。

人間だって、ほとんどの人は、大人になっても、平凡で特に人目を引かずに歳月が過ぎてしまうものです。
でも、紅葉は、落ちる前後に、人に印象付けるところがにくい。
還暦の赤いちゃんちゃんこも、紅葉に似て・・・と、考えてみたけれど、今の60歳は枯れるには、若すぎる人が多い。
20221204icho04
道路の側溝の落ち葉は、ゴミと思う人もいるのでしょうが、あでやかで、この季節ならではです。
2022年も、残り1カ月を切りました。悔いがないよう過ごしましょう。




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2020年9月13日に、当ブログで、井の頭弁財天について書いた後、ネットで検索したら、荻窪圭氏のブログ記事「甲州街道から井之頭弁財天参道を行く」を見つけ、江戸時代に甲州街道(国道20号)の旧街道から、井の頭池の弁財天(東京都三鷹市)へ行く参道があったことを知りました。
私は、昭和の時代、杉並区のこの道の近くに住んでいたのですが、それまでは、そんなことを知らず、興味を持ったわけです。そこで、その井之頭弁財天道を、起点から井之頭へたどった記事をブログに書きました。その後、さらに調査し、わかったことがあり、2022年11、12月に、下記を修正しました。

2022年に、わかったこと:
map-inogashiradou
2020年の頃は、井之頭弁財天道の久我山1丁目付近で、2本のルートが考えられ、どちらかわからなかったのですが、それが、2022年の調査で、わかりました。
その根拠の一つが、明治20(1887)年に作成された東京近傍図という古地図の復刻版[1]です。この地図は、明治13(1880)年から日本で最初の近代的な測量によって作成されました。
そして、もう一つの根拠が、沿道に残っていた石塔と解説です。
それらから、わかった井の頭弁財天道であったと考えられるルートを、東京近傍図のの復刻版のコピーに、ピンクの線でマークし、その説明を下記に加えました。

起点から牟礼にルートをたどる:

1)旧甲州街道の上高井戸宿と道標
井の頭弁財天道の起点は、江戸時代、旧甲州街道に上高井戸宿Wikipediaがあった場所のそばです。上高井戸宿の本陣は、現在の環八と国道20号(甲州街道)の交差点付近にあったそうです。その西にある旧甲州街道との交差点から、北側に曲がる道が井之頭弁財天道です。京王線の芦花公園駅のそばで、そこに道標があります。(杉並区上高井戸1-23)
20200921ino01
道標の表に「井之頭弁財天道 是ヨリ1里上」と彫られています。
左面に「別当所 大盛寺道 一里」と書かれていて、井の頭弁財天のある大盛寺まで一里(約4km)だそうです。
その右面(建物側で見えにくい)には、「貴?天保十四年・・・大盛寺・・・」と彫られているのではと思います。
天保14(1844)年だとすると、東京近傍図の測量は1873年からですから、その29年後です。当時は、まだ江戸時代の井之頭弁財天道が、かなり残っていたと推測されます。
江戸時代、この付近では、この井之頭弁財天道の両脇と、上高井戸宿の周囲までが高井戸村でした。その境界が、今でも杉並区と世田谷区の境界として残り、杉並区の南端がL字型になっています。

2)国道20号を渡って、北へ進みます。
20200921ino02ここも杉並区上高井戸で、庚申搭があります。
ここの二股を、左へ道なりに。

昭和の頃は、畑が多かった地域なのだけれど、今は、宅地が増えました。


3)高架になった中央高速道の下をくぐると、杉並区久我山に向かいます。
20200921ino03

この写真の右側に、玉川上水があります。



4)庚申搭(安永51776年)杉並区久我山1-3-2

20220926kuga1

東京近傍図のコピーで「民間信仰石塔 現在地」と書かれている場所です。

←2022年9月26日撮影
 

 
2022年秋、この庚申塔に再び行き、側面に気づきました。

kuga_douhyou_R


「右井ノ頭道」










kuga_douhyou_L

 

 「左リふちう道(府中道)」

 (注:「是より」と書かれていません)

杉並区教育委員会による看板の内容は、このページに。文化財案内標示板>「36 民間信仰石塔(久我山一丁目)【信仰】それによると、「当場所より少し西寄りの井ノ頭道の交差点に建立されたものです。ところが、戦争中周辺が軍用地となり」と書かれています。
東京近傍図を見ると、井の頭弁財天道の分岐点は、現在地よりやや西の久我山病院寄りなので、杉並区の解説と一致します。そして、その分岐点で、右側の道が井ノ頭道であり、左側の道ではなかったことがわかりました。というわけで、上記の地図でピンクの線のルートだとわかったわけです。また、現在、庚申塔が置かれている場所は、その分起点の東側なので、庚申塔の前の道こそが、かつての井之頭弁財天道(井ノ頭道)であったことになります。


軍需工場というのは、すぎなみ倶楽部のサイトを見ると岩崎通信機のことで、1943年に久我山に工場ができたそうです。久我山高校は、当時、岩崎学園でした。井之頭弁財天道も、この分起点より西の岩崎通信の敷地であった部分は、道路が残っていません。
20221121mure03
久我山高校から西に、玉川上水と並行した道が残っています。
←2022年11月21日撮影


5)三鷹市牟礼1丁目の庚申供養塔
20221121mure02久我山高校の先を進むと、東八道路に突き当たります。
そこを渡った牟礼1-5-10に庚申供養塔(享保17、1732年)があります。
←東八道路の向う側中央の細い道が井之頭弁財天道だった道。写真の右手前に庚申供養塔があります。2022年11月21日撮影

mure_douhyou_L
三鷹市教育委員会による解説が設置されていました。
それによると、この庚申供養塔には「左 是よ里 ふちう道」「右 是より 古く帰ん寺道」とあり、道が二股で、道標の役割もしていました。

つまり、右の国分寺道とは、ここから現人見街道を通り、連雀通りにつながる道です。連雀通り部分を、東京近傍図にオレンジ色の線で示しました。
ここから牟礼3丁目のお地蔵さんまでの区間は、国分寺道と井ノ頭道を兼ねていたことになります。


map-mureそして、この牟礼の庚申供養塔の解説に、「19世紀初め頃の牟礼村古絵図」が表示されていますが、その古絵図の中央、玉川上水の近くに「井之頭道」と書かれています。
つまり、この牟礼村古絵図と、久我山1丁目の庚申塔の記述から、井之頭弁財天道は、井之頭道(井ノ頭道)とも呼ばれていたことがわかりました。

6)真福寺の前
20221121mure01←2022年11月21日撮影
牟礼の真福寺の開山は、慶長6年1602年だそうで、江戸時代になってからすぐです。

さらに西に進むと、当ブログ「古道2 井の頭弁財天道1 三鷹市牟礼から弁財天」で紹介した牟礼2丁目の交差点から、井の頭の黒門に行きます。

江戸時代に、甲州街道が整備され、井之頭池が、神田上水の水源となり、井之頭周辺のかなり広い地域が、幕府の鷹狩や萱(かや)狩場に用いられていたそうです。そのため、井之頭弁財天道は、甲州街道から幕府の人たちも通る道であったと考えられます。
しかし、明治32年に現在の中央線の吉祥寺駅が開業し、井之頭池へのアクセスが便利になり、井之頭弁財天道の参道としての役割は廃れていったと考えられます。
井之頭公園の辺りは、明治に帝室の御料林となり、大正時代に恩賜公園として一般に開放され、より多くの人を集客するようになりましたが、井之頭弁財天道は、沿道の住民にその名前すら知られなくなっていったのではと推測されます。

甲州街道の上高井戸から井の頭弁財天まで、1里で4km。
日本橋から上高井戸宿まで、5里20km。
昔、江戸城のあたりから来たとすると、往復で40㎞以上、フルマラソンより長い距離です。
日帰りできない距離ではありませんが、健脚だったのだなと、つくづく思います。


参考:
[1]1880(明治20)年陸軍測量局発行(測量は明治13~19年)の東京近傍図、西部。復刻版発行は、古地図史料出版株式会社。その一部をコピーし、注やラインを加筆。


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昆布、トマト、チーズ・・・どれも好きだが、まさか共通な成分があるとは思ってもいなかった。
しかし、いずれもグルタミン酸が多いと、最近、知って驚いた。
参照:日本うま味調味料協会のwebサイト

農研機構の解説によると、トマトは、熟成するほどグルタミン酸が増し、冬より夏の方が、多く含まれるそうだ。夏の旬のトマトは、おいしいので、納得だ。

白菜にも含まれるそうで、キャベツとは違ったうまさの理由がわかった気がする。(参考:ケノコト
これからのシーズン、鍋に使う白菜はうまい。

グルタミン酸は、みそ、醤油にも多く含まれるが、これも納得。
みそ汁を、昆布だしで作れば、それだけで最強な組み合わせである。

グルタミン酸の効果は、次のようだ。(参照:わかさの秘密>グルタミン酸とは?
・リラックス成分であるGABA(ギャバ)を生成する
・アンモニアを解毒し、尿の排出を促進する
・脂肪の蓄積を抑える
・皮膚の保湿
・血圧を下げる

20221116kon01

昆布のうまみに目覚めたのは、以前、北海道に行ったときからだ。
それ以来、昆布入りの液体だしを使っている。
←これは、たまたま買ったもの。普段は、白だしとか。
面倒なので、昆布そのものは、買わないのだけれど。









20221027kobu01先月、巣鴨に行く用事があって、初めて「とげぬき地蔵」にも行った。
その商店街に利尻屋みのやのお店があって、昆布のおつまみを買ったわけだ。
「パリパリくろべえ」おいしくて、あっという間に食べてしまった。
利尻屋みのやの本店は、小樽だそうだ。




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甲州街道から、東京都調布市の深大寺に行く参詣道が、江戸時代にありました。
参詣【さんけい)神仏におまいりすること。)
jindaijisanndo_web_meiji20
今年、明治20(1887)年に作成された東京近傍図という古地図の復刻版[1]を入手し、そのルートがわかりました。図の水色の線です。
当時は、まだ道も住宅も少なく、江戸時代のなごりが残っています。

そこで、2019/12/29に、その道を歩いたブログ記事を修正して、改めて深大寺参道を紹介します。

20221115jin01滝坂という京王線のつつじヶ丘駅と仙川駅の中間の坂道の上です。
東京近傍図を見ると、国道20号(甲州街道)のキューピー(株)仙川キューポートの向かいが、参詣道への分岐点であったことがわかります。
←(2022.11撮影)この交差点の左側の住宅は、以前、榮太楼調布工場だったのですが、参詣道は、その敷地内を通っていたことがわかります。

江戸時代、嘉陵紀行(かりょうきこう)という村尾嘉陵さんが、日帰りの旅行をまとめた紀行文があります。その「府中道の記」に、文化9(1812)年、甲州街道を府中まで行った様子が書かれています。それに「上高井戸、烏山、給田、下仙川などいふ処を過ぎ、みな見所なし、下仙川に小坂あり、多喜坂となづく、左に目黒道あり、右に深大寺道あり、坂を下りてひだりに田の面見わたさる、右に酒戸あり」と書かれています。多喜坂とは、現在の「滝坂」ことです。
20191229jindaiji07
←(2019.12撮影)かつては、滝坂の上の分起点にあった道標が、今は、深大寺の境内にあります。
それによると、1703年、江戸時代に立てられ、1820年に再建だそうです。右側面に「是より 太師尊参詣道」などと書かれています。
昭和の東京オリンピック(1964)の前に、甲州街道の拡幅工事に伴って、深大寺に移転させられた・・てなことが、右の案内板に書いてありました。
昭和の東京オリンピックでは、甲州街道は、今の味の素スタジアムの近くの折り返し地点まで、マラソンのコースになっていたんです。

20221115jin02
←(2022.11撮影)東京近傍図を見ると、おそらく三鷹市中原1丁目、この先のカーブの辺りから、江戸時代からの参道です。



20191229jindaiji01(2019.12撮影)住宅が立ち並んでいますが、高台なので、遠くに山並みが見えます。
この辺りは、国分寺崖線の一部で、古代に多摩川が作った河岸段丘になっています。


20221115jin03

(2022.11撮影)坂を下り、また上り。




20191229jindaiji02


中西の交差点。(2019.12撮影)
あとは、高台の道を進みます。







20191229jindaiji03

上ノ原五差路。(2019.12撮影)




20191229jindaiji04中央高速道路。(2019.12撮影)
松任谷由実さんの曲「中央フリーウェイ」の歌詞
「調布基地を追い越し」とあるけれど、その場所は自動車なら、ここのすぐ先です。ただ、今は調布基地はなく、調布飛行場が残っています。


20191229jindaiji05深大寺に近くなると、植木を作っている農家が多く、緑が豊かになってきます。(2019.12撮影)
この先の左が、東京都立農業高等学校 神代農場
国分寺崖線に沿って、あちこちに湧水があって、ここもその水を利用した農業の設備があります。

20191229jindaiji08

深大寺の湧水。(2019.12撮影)




20191229jindaiji06
2019年12月29日なので、初詣の準備ができていました。
この辺は、門前の深大寺そばの店も多く、年越しそばから、年始の初詣の期間は、混雑します。


深大寺は、普段、自転車で行っているのですが、歩いて行ったのは初めてです。スマホの歩数計がどのくらい当てになるのかは、わかりませんが、往復で1万歩を超えました。

参考:
[1]1880(明治20)年陸軍測量局発行(測量は明治13~19年)の東京近傍図、西部。復刻版発行は、古地図史料出版株式会社。その一部をコピーし、注やラインを加筆。
[2]村尾嘉陵「嘉陵紀行」、引用部分は下山照夫[編](1994)「史料に見る江戸時代の世田谷」岩田書店p19



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11月3日は祝日。
雑用を終えて、4時頃だったか、近くの多摩川へ。
20221103tama01
昔から、何度も来ている場所。
小田急の登戸方面。対岸は、神奈川県。
堤防の中が草が刈られて、入れない。でも、そこを自転車を押しているおっさんがいた。

別の場所から、堤防を降りて、川岸へ。
20221103tama02
川面を見ながら、ぼーーーーー。

ただ景色を眺めて、静かに時間が過ぎて・・・。
川の中に釣り人が一人いるが無視。
(太陽を写したので、他が暗く見えるけれど、実際はもっと明るかった。)

土手に戻ると、ランニング、散歩、サイクリング、それなりに利用する人は多かった。
気分転換になるからね。
20221103tama03


陽が沈んで、なんか暮れていく感じが良い。


帰りにヨーカドーに寄ったら、マイナポイントがnanacoに入っていた。




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小説「いのちの停車場」南杏子[著]2020年幻冬舎を読んだ。
20221014ino01冒頭は、救急医療のシーンから始まるが、本編は在宅医療をテーマとしている。

妙に臨場感があると思って、Wikipediaを見たら、作者の南さんは、内科医であった。私と同世代だが、結婚後、30代になって、東海大学医学部に編入して、医師免許を取られたそうだ。、勉強の方もかなり努力がいたはずだが、私大の医学部の学費は高い(卒業までに*千万円)から、どうしたのだろうと思った。そして、50代になって、小説家になったのだから、多才な人だと思った。

「いのちの停車場」の主人公は62歳の女性医師。その年齢から、在宅医療に転職した。在宅医療は、通常の外来に来られない患者を相手にしたものだから、どうしても死と隣り合わせな仕事である。
そのような終末期の患者で問題となるテーマを、各章ごとに扱っている。
医師による治療をなかなか受け入れてくれない家族
他の専門医との連携
ゴミ屋敷
国全体の医療費高騰の問題
小児がん
安楽死
それぞれの患者と家族が、死と向きあう場面を通じて、本当に大事なことは何か?、そういう難しい問題を問いかけている。
小説だと、金沢の食や文化などがところどころに書かれ、興味がわく。それが終末という難しいテーマを考える、つかの間の「生」の楽しみに引き戻してくれる。
私にとって、一番、身につまされたのが、小児がんの章だった。読んでいて、泣いてしまった。
患者の女の子は、小説のモデルがいたのか知らないが、精神的にあまりにも大人だ。というか、大人でも、非常に難しい境地だ。
他のシーンを読んでも、私はこれまで、どのくらいの人の最期に関わってきたろうかと回想していた。福祉の仕事は、医師と違い、死の前にサービスが終了し、臨終に立ち会うことは稀だった。
そして、在宅医療の利用は、家族や持ち家がある人が、ほとんどなのではなかろうかと思った。単身者は、それくらいの病状になったら、病院か施設に入所することになりそうだし、賃貸ならいつまで家賃を払うかという問題も出てくる。

その後、映画を見たが、脚本が、小説の肝心なところを抜かしていた出来になっていた。2時間以内に収めないといけないという制約はわかるが、リアリティは小説の1/5程度ではなかろうか?
この脚本だと、なぜ主人公が、東京の大学病院を辞めて富山に行ったか、なぜ野呂君という若者が富山に行ったのか、わかりにくいだろうと思う。
あと、個々の俳優さんは頑張っているのだが、その元となるキャスティングに無理がありすぎる。吉永小百合さんは、演技でカバーしているとはいえ、つい最近まで救命救急の現役だった医師を演じるには高齢だし、その父親役の田中泯さんとは、親子というより夫婦である。この物語のテーマの一つは、救急という人を生かすという目的が明確な現場と、在宅診療という死に向かう一方の患者と家族に何が大切か戸惑う現場の対比なのだ。それを描くためには、つい最近まで、救急でバリバリの優秀な医師という設定が欠かせない。
あと、ゴミ屋敷の家主が、そう簡単に片づけさせてくれるものでもない・・・など挙げればきりがない。
私は、以前、福祉の仕事をしていたので、在宅の難しさは、共感できるものがあった。小説では、ゴミ屋敷に訪問して自宅に入る前に、看護師が医師に、小説では、足カバー、防水コートとパンツ防塵マスクを準備しておいて渡す場面が書かれていた。私も、以前、そういう家屋に、訪問したことがあったが、そのとき、同行したケアマネが、風呂用の履物を室内履きに用意してくれていた。しかし、それだと、足底が薄く、画鋲のようなとがったものが刺さるため、危なかった経験を思い出した。でも、そういう家でも、それまでの家族の歴史が伝わってくるものであった。

というわけで、映画よりも、小説で読むことをお勧めしたい作品であった。

↓映画の予告編





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関東で観音様がご本尊となっている33の古いお寺を巡礼する坂東三十三観音、10月3日に埼玉県の吉見観音と、岩殿観音へ行ってきました。坂東三十三観音は、今から1200年以上前の奈良から平安時代に建てられたお寺で、(公式サイトによると)巡礼として三十三のお寺が決まったのは、鎌倉時代の初期だそうです。

この日は、まず吉見観音(岩殿山 安楽寺)を目指して、東武東上線で、東松山駅で降りました。鴻巣免許センター行きのバスで、久保田で降り、そこから、延々、歩きました。
20221003bando01付近は、広い田んぼと、ところどころに沼があって、昔から稲作が行われていたのだろうな想像させる場所でした。
ときどき、ガイドブックとスマホで地図を見て、位置を確認しながら、川沿いの道を歩いていきました。
歩きつつ、昔の人は、どうやって、お寺の場所がわかったのだろうと思いました。正確な地図があるわけでもなく、口伝えで、ルートを聞いたのでしょうか?鎌倉時代は、文字を読み書きできる人は、ごく少なく、行き方を文書で書いたものを頼りに行ける人は限られていたのではとも思います。
20221003bando02それと、今の時代は、公共交通も宿泊施設もあるので、それほど困らないのですが、昔の人は、歩いて旅したでしょうから、どうしたのだろうと思いました。坂東三十三観音は、そう簡単には行けない場所にある寺が多いのです。
前回まで9のお寺にお参りしましたが、これからは、公共交通で行くには不便なお寺が出てきます。現代は、飲み水も食料も、心配しなくて済むのですが、鎌倉時代の人は、どうやって旅したのでしょうか。そんなことを考えつつ、田舎道を歩きました。
20221003bando03
お寺が近づくと、道端にところどろ石像や石碑が立っています。





20221003bando04
ガイドブックには、久保田のバス停から40分と書いてあったのですが、30分ほどで着きました。



20221003bando05

奥に、観音像が見えました。参拝。
そして、納経しました。



20221003bando06

木造の三重塔。
江戸時代に建てられたものだそうです。



20221003bando07帰りは、また延々と歩きました。
何か発砲音が聞こえるなと思ったら、百穴射撃場だそうです。
そして、吉見百穴の中には入らず、外から眺めました。
Wikipediaによると、古墳時代の遺跡だそうです。
若い頃、東武東上線の広告の仕事をちょっとしたことがあって、そのときに、沿線マップのイラストを描きました。そのとき、吉見百穴の絵も描いた記憶があります。そこで、実物を見ようと、寄って見たわけです。
20221003bando08吉見百穴のそばの岩室観音堂。
ここは、中に入りました。
古い木造建築と、石仏です。

バスの本数が少なく、このあと、東松山駅まで、さらに歩いたので、この頃は、既に歩き疲れています。(ノД`)・゜・。
でも、この日のうちに、正法寺に行こうと、東上線で、隣の高坂駅に行きました。そこからバスです。
20221003bando09
そして、岩殿観音、正法寺に着きました。718年にできたお寺です。
近くに、埼玉県こども動物自然公園などがあるのですが、そういうものがなかった古代は、田舎だったろうと思う場所です。
今年は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をやっていて、13人お一人、比企家ゆかりの地なのだそうです。
20221003bando10←仁王門
納経をしたときに、ここのご住職さんが、いろいろお話ししてくれました。
そのとき、前述の昔の人は、どうやって巡礼をしたのだろうという話題になりました。
ご住職さんは、かつて京都で、僧侶の修行をしたそうなのですが、そのとき、東海道を歩いていったことがあり、東海道なら街で泊るところを見つけられるのが、坂東の巡礼では、そうはいかないなどと話していました。
このお寺には、車で来る人が多いそうで、公共交通で来たと言ったら、へぇという反応でした。
観音堂では、金ぴかの観音様が見えました。ご住職によると、せっかく来られる方が、観音像を見られないのではと思い、お姿を解放しているのだそうです。他のお寺だと、ご本尊が見えないところもあります。
納経代500円のために、1000円札を出したのですが、ご住職は、なかなかお釣りというそぶりにならず、話がなかなか終わらない。でも、今日は、ここに来るまでに難儀なこともあったので、お話できてよかったと思いました。
知らない人とお話しできるのも、旅っぽい。
この日、歩いたのは、合計で約2万3千歩。歩いた方が、巡礼っぽいかなと、巡礼の意義を考えつつ行わないと、ただの御朱印集めになってしまうので、試行錯誤をしつつです。



2022年09月12日岩殿寺、星谷寺、弘明寺(坂東三十三観音6、神奈川県)




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スーザン・ボイルさんは、イギリスの「Britain's Got Talent」というオーディション番組で、2009年、見事な歌声で、一躍有名になった歌手だ。
動画はYouTubeで、世界中に広まった。当時スーザン・ボイルさんは、47歳。それまでの長い年月、陽の目をみなかった才能が、一気に世に認められた姿は、感動ものであった。
その後も、気持ちをすっきりさせたいときに、しばしば見ていたが、その度に涙ぐんでしまう。

そして、10年後の2019年、以前の審査員であったサイモン・コーウェルさんが審査をしているアメリカのオーディション番組に登場して、歌う。スーザンさんもサイモンさんも、10年たった分、円熟している。他の審査員も、スーザンさんの実力を認めて、またしても感動の動画だ。その動画も、YouTubeから紹介する。

***↓動画の順番が、初投稿の後、入れ替わってます***


2009/UK


2019/USA




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