甲州街道から、東京都調布市の深大寺に行く参詣道が、江戸時代にありました。
参詣【さんけい)神仏におまいりすること。)
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今年、明治20(1887)年に作成された東京近傍図という古地図の復刻版[1]を入手し、そのルートがわかりました。図の水色の線です。
当時は、まだ道も住宅も少なく、江戸時代のなごりが残っています。

そこで、2019/12/29に、その道を歩いたブログ記事を修正して、改めて深大寺参道を紹介します。

20221115jin01滝坂という京王線のつつじヶ丘駅と仙川駅の中間の坂道の上です。
東京近傍図を見ると、国道20号(甲州街道)のキューピー(株)仙川キューポートの向かいが、参詣道への分岐点であったことがわかります。
←(2022.11撮影)この交差点の左側の住宅は、以前、榮太楼調布工場だったのですが、参詣道は、その敷地内を通っていたことがわかります。

江戸時代、嘉陵紀行(かりょうきこう)という村尾嘉陵さんが、日帰りの旅行をまとめた紀行文があります。その「府中道の記」に、文化9(1812)年、甲州街道を府中まで行った様子が書かれています。それに「上高井戸、烏山、給田、下仙川などいふ処を過ぎ、みな見所なし、下仙川に小坂あり、多喜坂となづく、左に目黒道あり、右に深大寺道あり、坂を下りてひだりに田の面見わたさる、右に酒戸あり」と書かれています。多喜坂とは、現在の「滝坂」ことです。
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←(2019.12撮影)かつては、滝坂の上の分起点にあった道標が、今は、深大寺の境内にあります。
それによると、1703年、江戸時代に立てられ、1820年に再建だそうです。右側面に「是より 太師尊参詣道」などと書かれています。
昭和の東京オリンピック(1964)の前に、甲州街道の拡幅工事に伴って、深大寺に移転させられた・・てなことが、右の案内板に書いてありました。
昭和の東京オリンピックでは、甲州街道は、今の味の素スタジアムの近くの折り返し地点まで、マラソンのコースになっていたんです。

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←(2022.11撮影)東京近傍図を見ると、おそらく三鷹市中原1丁目、この先のカーブの辺りから、江戸時代からの参道です。



20191229jindaiji01(2019.12撮影)住宅が立ち並んでいますが、高台なので、遠くに山並みが見えます。
この辺りは、国分寺崖線の一部で、古代に多摩川が作った河岸段丘になっています。


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(2022.11撮影)坂を下り、また上り。




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中西の交差点。(2019.12撮影)
あとは、高台の道を進みます。







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上ノ原五差路。(2019.12撮影)




20191229jindaiji04中央高速道路。(2019.12撮影)
松任谷由実さんの曲「中央フリーウェイ」の歌詞
「調布基地を追い越し」とあるけれど、その場所は自動車なら、ここのすぐ先です。ただ、今は調布基地はなく、調布飛行場が残っています。


20191229jindaiji05深大寺に近くなると、植木を作っている農家が多く、緑が豊かになってきます。(2019.12撮影)
この先の左が、東京都立農業高等学校 神代農場
国分寺崖線に沿って、あちこちに湧水があって、ここもその水を利用した農業の設備があります。

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深大寺の湧水。(2019.12撮影)




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2019年12月29日なので、初詣の準備ができていました。
この辺は、門前の深大寺そばの店も多く、年越しそばから、年始の初詣の期間は、混雑します。


深大寺は、普段、自転車で行っているのですが、歩いて行ったのは初めてです。スマホの歩数計がどのくらい当てになるのかは、わかりませんが、往復で1万歩を超えました。

参考:
[1]1880(明治20)年陸軍測量局発行(測量は明治13~19年)の東京近傍図、西部。復刻版発行は、古地図史料出版株式会社。その一部をコピーし、注やラインを加筆。
[2]村尾嘉陵「嘉陵紀行」、引用部分は下山照夫[編](1994)「史料に見る江戸時代の世田谷」岩田書店p19



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